結論から書く。
偉い人に言われたのであれば、全力で無視しろ。
強いコンプレックスがあるなら、無理してやめなくていい。
顔出しNGにしかできないメリットはちゃんとある。
ただし、顔出しOKの倍の努力が必要なことは覚悟してほしい。
「顔を出して活動しないと大成しない」という勘違い
「顔を出して活動しないと大成しない」と言って、あからさまに顔出しを勧めてくる人の意見は無視して良い。なぜなら、顔出しOK至上主義の人は、そもそも自分の周りに顔出しOKの人しかいないからだ。
だから、顔出しNGの人たちの心理も、顔出しNGでもブランディングを築き上げている人がいることも、よくわかっていない。
顔を出して活動すると、たしかにある程度のプラス効果はある。
人は容姿で相手を判断する。優れた種を残すために機能としてDNAに備わっているのだから仕方がない。どんなに醜い人でも分け隔てなく接すると公言する人の方が、私は怖い。
しかし、人の容姿の評価評価基準は、単純な美醜ではなく「清潔感」である。
デブが嫌がられるのも、醜いからというより、だらしないからである。
顔を出して活動すると、その事実と、清潔感を出す「コツ」に気づく。
「見られる」というのはそれだけ、人のモチベーションを向上させるものだ。
しかし。しかしだ。
世の中には、見られることに耐えられない人種がいる。
自分が相対的にどのくらい美しいかとか、清潔感があるかという問題ではなく、
自分の写真がインターネット上に公開され、自分のことを全く知らない不特定多数の人間に見られ、ちょっとでも記憶に残るのが耐えられないのである。
そういった類の人たちは、顔出しは大幅にパフォーマンスを落とすため、逆効果である。
神経質?自意識過剰?
おまえは何を言っているんだ。いくらでも一般的な言葉に当てはめればいいさ。
顔出しNGのメリット
成果物の評価をゼロから始められる
さっき書いたように人間とは残酷な生き物である。顔を出して創作物を発表すると、よほどの天才でもない限り、必ず容姿と肩書きの底上げが入ってしまう。
田辺誠一や櫻井翔のイラストがいい例である。あの絵を不細工な人が書いていてもウケないだろう。
中学生の頃週刊少年ジャンプのイベントに行って、冨樫義博(当時はまだ若手で「てんで性悪キューピッド」という美少女漫画を書いていた)の写真を見て子どもが笑っていたのが忘れられない。
顔を出さずに活動するというのは、そういった本能的な評価を無くせることでもある。
キャラメイクができる
もうひとつは「謎めいた人」というキャラメイクが可能となることである。
面白い発言をするし素敵な作品を作るし、地元の人にはとっても人気があるらしいのに、イベントでもめったに会うことができない、謎の人物。
これは顔を出して中途半端な発表をするよりも、よっぽど大きなブランディングである。
顔出しNGを貫くなら
イベントでのフットワークを軽くする
私はセミナーイベントの運営を何度かやっている。
撮影時はそういった人がいないか聞いているし、顔出しNGは保護するが、無闇に「顔出しNG です!プライバシーに気を遣ってください!」と叫ばれても困る。それはただの痛い人である。
なので、顔出しNGを貫く場合は、会場内の席を壁側などの死角を選んだり、懇親会の乾杯のときにさっとカメラマンの足元に回りこむ(写るのが後頭部だけで済む)など、フットワークを軽くしてほしい。
キャラを立てる
「顔」という人に覚えてもらいやすい要素を捨てるためには、他の要素、「オリジナリティの高いアイコン」「創作物」「エピソード」を普通以上に育てなければならない。
コミュ障とは言っていられない。SNSでたくさん発言し、作品を発表し、顔は出さずとも清潔感を整え、イベントに熱心に参加する必要が出てくる。
さっきのイベントの話でも、キャラが立った出演者であれば問題ない。居場所がわかっているから写らないようにするのも楽だし、謎めいたキャラをネタにして、全力で遊べる。
キングジムのTwitterの中の人は、キングジムのロゴの紙箱を頭からかぶってテレビ番組に出演している。
そのくらいになれば顔出しNGは芸風となる。
どちらの選択も覚悟だ
結局、どちらを選んでもいいわけだが、顔出しは覚悟してほしい。
一度顔を出すと、もう顔出しNGに戻ることはできない。
顔を出して十年になるが、写真がFacebookなどにアップされるたびにのたうち回る。
それでも会心の「仕事ができそうなうぇびんさんの写真」がアップされると、ひそかにニヨニヨする余裕はどうにかできている。両親も喜ぶ。
しかし、顔を出さないのにも覚悟がいる。
私はそれができないから、顔出しをしつつFacebookと名刺以外をアイコンにすることで逃げている。
顔を出すのが当たり前になった今、顔出しNGを貫きながら活動する人々を、私は心からかっこいいと思う。